計数されざる者たち

私文あるいは死文の集積地

書きたがる人種

 受かるアテもない新人賞にひたすら小説を投稿し続ける人の話をどこかで読んだ(あるいは聞いた)。99%がムダになるとわかっていながら、それでも書き続ける人の話だ。どうしてムダになるとわかっているのに書くのか、と尋ねられたその人は次のように答えたという。「ムダになるとわかっているから書けるんじゃないか」。

 どうして人は文章を書きたがるのか。いや、正確を期すなら「どうして書きたがる人種がいるのか」と言ったほうがいいか。世の中には間違いなく「書きたがる人種」という厄介な手合いが一定数存在する。かくいうぼくもその一人だが、取り立てて文章にしたためる主題もないのに「書きたい」という欲求が先行して、愚にも付かない私文(あるいは死文)を量産してしまうような手合いのことだ。

 これもどこかで耳にした話だが、世界中に存在する星の数ほどもあるブログのうち全体の約3割強は日本語で書かれているそうだ。そのほとんどは取り留めもない日々の出来事や、溜め込んだ鬱憤や愚痴なのだろう。あるいはオンラインで拾った情報を継ぎ接ぎしただけのパッチワーク的なハウツー記事か。いずれにせよ、内容が希薄であることに変わりはない。

 質の如何はさて置くとして、「書きたがる人種」の多さを示す傍証として、3割強という数字は無視できない。さらに数字を引用するなら、Twitterのユーザー数においても、日本は世界ランク2位だ。初期は140文字という制限だったのが、今では最大4000文字になった、というニュースは記憶に新しい。あの小さいテキストボックスにそんな文量を入力するモチベーションも末恐ろしいが、イーロン・マスク買収後の右往左往という表現がぴったりくるような度重なる仕様変更を経てもなお必死にしがみついているユーザーの執着っぷりも呆れるのを通り越して恐ろしい。

 Twitterから国内に目を転じれば、Noteというブログサービスが今なお根強い人気を誇っている。一億総クリエイターを謳っているものの、蓋を開けてみれば一億総評論家を量産しているだけのような気もする。ぼくは他人の書いた文章を読むのが好きな質だから、はてなブログやNoteのトップページから、面白そうな記事を求めて探索することが多いのだけど、そこで目にすのは玉石混交で、ぼくが探しているのは「玉」のほうなのに、まぁ「石」が多いのなんの。いわく、「○○に行ってきました」。いわく、「Noteやめます」。いわく、「〜で○○するの止めたら人生変わりました」。こういった、どこかで見たようなタイトルの記事を誤操作でタップしてしまった時、口にする言葉は毎度決まっている。

「知らんがな」

そう、知らん。知らんがな、に尽きるのである。誰もお前のことプライベートになんか、ましてやどこの馬の骨とも知れん没個性的な「個」が、何をしてどう感じようが、毛ほども興味はないのである。それをつらつらと口語体と文語体が混合したなんちゃって文体で書き連ねやがって……このガキャぁ……

 閑話休題
 話をもとに戻すと、どうしてこんなにも「書きたがる人種」が多いのか、という疑問に立ち返ってくる。書きたがる人種、とりわけ、とくに書く主題もないのに書こうとする人間がかくも多いのか。人様を詰っておいて責任逃れする気もないので明言しておくと、かくいうぼくもこの「人種」の中に含有される。

 だが、どうして……?
 なにゆえ、かくも多いのか、書きたがる人種は。Why Japanese ピーポー

 おそらく、ぼくも含めてこの「書きたがる人種」という連中は、欲求ではなく欲望のレベルにおいて書かずにいられない人たちなのだろう。ある程度社会性を帯びる欲求の次元ではなく、もっとラディカルかつ動物的な、欲望のレベルにおいて書いてしまうような手合い。

 ここでより明瞭化するために、まずは欲望ではなく欲求で書いている人について考えてみたい。欲求で書く人というのは、あらかじめ主張したい事柄が先行して、それを他人に伝えるために書くこと──書く動機が自分の内ではなく、外に向いている人。つまり、書くという行為が社会的な領域に向けて開かれている人のことだ。ことばが世界を切り取るツールであり、文章には情報と感情というたしかな意味が宿っていることを十全に理解し、書くという行為は文を媒介した他者とのコミュニケーションであるという前提に従って文章を書くような人たちのことだ。文壇に名を連ねる文化人たちや、言葉を生業とする人たち、といった有名な、パブリックな書き手が好例だろう。

 では、ぼくも含めたオンラインに星の数ほどもある路傍の石のような駄文を書き連ねている欲望レベルで駆動する書き手は一体なんのか。先に挙げた「欲求で書いている人」ではない、それ以外の人すべてが該当する。冒頭に挙げたエピソードと同じく、99%がムダになる──「知らんがな」に帰結するとわかっていながら、それでも書かずにいられない性情の人々。欲求レベルで筆を執る文化人と違って、ぼくたちの書くことばはもっと動物的で、情動にまみれていて、ともすると卑猥な香りすら漂う。それは、ただ「書きたい」という欲望に突き動かされたまま書かれたことばであり、己を切り売りしたささやかなカミングアウトであり、世間的に見て、まったくもって無価値なものだからだ。だが同時に、無価値だとあらかじめわかっているがゆえに書けるのだ。あらかじめ99%がムダになるとわかっているから書けることば。

 書かれた文章それ自体ではなく、書くという行為、その過程に価値を見出す倒錯した感覚。日常生活の中で無意識のうちに感じていた事柄を言語化することによって輪郭を付与し、眼前に晒して取り扱える状態にするということ。パソコンの前に向かい、文章を書きながら己の内から吐き出された言葉を通じて自己を客観視するということ。書き出された言葉は自分の内から生起したはずなのに、いざそれを目前にすると自分のものだとは到底思えない(あるいは思いたくない)、という拭い難い違和感。録音された自らの声を耳にした時のような、あるいは写真に写った自身を目にした時のような、羞恥をともなった違和感を感じながら、それでもぼくたちは書き続ける。

 ぼくのような人種にとって書くという行為は性欲や食欲と同じ次元に属するものだからだ。書くことは考えることであり、こうして今文章を書きながら同時に、書いているぼくという行為主体は更新され続ける。この感覚が好きだから、ぼくも含めた「書きたがる人種」は、オンラインに生息する名もなき無数の個は、かくも無価値な文章をサイバースペース上でスプロールし続けているのではないだろうか。

 読まれるアテのない文章群。私文あるいは死文。
 時々、想像することがある。小役人として生涯を終えたカフカは、いったいどんな気持ちで小説を書いていたのだろうか。もし現代にカフカが生きていたら、彼にとってのツイートは小説という形でしか表現できなかったのではないか。人生があまりにも短すぎるように、自己を切り売りするのに140文字という制限は厳しすぎる。かといって4000文字でカミングアウトできるほど人生は薄っぺらくない。だから人々はブログを書くのだろう。

 そういうわけで、これからアテのない文章を書いては、このブログにせっせと投稿していくことにする。その行為自体に何か価値があるとは思わない。ただ書きたいから書く。そんな欲望垂れ流しの場所にしたいと思う。

「ことばで伝わらないものが、たしかにある。だけど、それはことばを使いつくした人だけが言えることだ。
だから、ことばというやつは、心という海に浮かんだ氷山みたいなものじゃないかな。海面から出ている部分はわずかだけど、それによって、海面下に存在する大きなものを知覚したり感じとったりすることができる」

銀河英雄伝説 ヤン・ウェンリー