計数されざる者たち

私文あるいは死文の集積地

訳のわからないものの面白さ

 数ヶ月ぶりに、訳のわからないものを見た。
 「久々」でも「〜以来」でもなく、「数ヶ月ぶり」というのはべつにイキりたくて強がっているわけではなくて、今年に入って一発目の「訳のわからないもの」がエブエブだったからだ。

 エブエブ──正式表題は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』。
 イニャリトゥの『バードマン』、『博士の異常な愛情』、『我が谷は緑なりき』、『12人の怒れる男たち』しかり、古今東西の映画史において、タイトルが長い映画は高確率で面白いと相場は決まっている。

 エブエブもその例に漏れず面白い映画だった。陳腐な言葉で言ってしまうと「シュール」な映画だった。とんでもなくパンチの効いた前衛的な演出なのに、口当たりはエンタメ映画で、劇場を後にする時、最後に残るものは胸の奥底にじんと染みわたる温かい情感。関西のインディアンカリーを食べた時の、甘さがいつの間にか辛さに変遷していて、鼻梁に汗をかいていることに気がついた、みたいな「してやられた感」がすごい映画。

 アジアン×カンフー×マルチバースというキャッチーな要素を斬新な見せ方でパッケージングした結果、とんでもない化学反応が起きたのがエブエブだった。エブエブの凄まじさは、その見せ方に幻惑されまくって、「なんだこれ、俺は今何を見せられているんだ……」と自失しているうちに、物語はいつの間にやら紛う方ない純度200%の「愛」に帰着し、感涙のうちにエンドロールが流れ出す──というあの「ごった煮」「カオス」感にあったと思う。

 「訳がわからない……」「なんだこれ……」そんな茫然自失を伴ったカタルシスデビット・リンチタランティーノの映画を初めて見た時に誰しもが感じる、あの奇妙な感覚がエブエブにも確かにあった。

 そして、エブエブの衝撃と余韻からようやく立ち直れた2023年5月。コナン映画のアバンタイトルよろしく完全に油断しきっていたぼくは、背後から近づいてくるもう一つの「訳がわからないもの」に気がつかなかった。それが目下、話題沸騰中(のはず、少なくともぼくの中ではトレンドワード1位)のTV番組、『SIX HACK』である。

 作家の樋口恭介さんがTwitterで紹介していて『SIX HACK』という番組の存在を知ったのだけれど、いざ観てみると、まさかの樋口さんご本人が出演されていてびっくら昆布。
なんだこれ。見るしかないじゃないか。
というわけで、『構造素子』からSFマガジンの異常論文特集、さらにはセルフパブリッシングの散文集まで読むほど樋口さんファンなぼくは、すぐさま視聴を開始。

 で、ついさきほど2話目まで観終えたのだけれど、エブエブに匹敵するくらい「訳がわからない」コンテンツだった。エブエブは劇映画だったけど、このSIX HACKはTV番組だ。この時点でもう訳がわからない。TV番組のコンテンツといえばお行儀が良くて、口当たりの良い最大公約数的なポジショントークしかできない情報番組か、頭のスイッチをOFFにして呵呵大笑するためのバラエティ番組の二者択一になるのが通論。(予防線張っておくと、ぼくはバラエティ好きだぞ。ユーモアのない人生なんてクソつまらんからな)

 というか、よくこんなパンクな企画、TV Tokyo上層部のジャッジ通ったな……
 こんな尖った番組の企画にゴーサインが出たことも驚きなら、深夜枠とはいえオンエアされている事実にも驚きだし、当世風にTVerやらYoutubeで見逃し配信にも対応済みなところにもびっくら昆布。

 そんないくつもの驚きが重なった結果うまれた、奇跡の番組。それがSIX HACKである。

 この番組が掲げる旗印はしごくシンプルである。同時にものすごく既視感がある。

 「偉くなろう。偉くなって、正しいことをしよう」

 うん、寒い。(褒め言葉)
 なにが寒いって、こんな感じのWe can do better的な世界観/温度感の言葉が日常のそこここに探せば見つかる、という事実が寒い。そんでもって、こうった上昇志向な耳触りの良い言葉に踊らされて、なかば宗教じみた盲目っぷりで礼讃しているフォロワーの言動が寒い。

 現代人なら誰しも既視感がある「寒さ」だと思う。日常生活を見渡せば、簡単に見つかる「意識高い系」な言葉の数々。

 書店のレジ横なんかに大量に平積みされている文字通り薄っぺらいハウツー本の新書、あるいは頭でっかちの意識高い系を大量養殖するための有料オンラインサロン。あるいは、NewsPicksのコメント欄。ビジネス街を走る電車やバス、タクシーといったモビリティの中に掲載されている広告の煽り文句。SNSに掃いて捨てるほど居る「自称○○」な意識高い系の人。

 人生は方法(ハウツー)を学べば誰でも必ず成功できる平等なゲームであり、世界は可能性に満ち満ちている──という前提の上で展開される、こういった「意識高い系」な言葉の数々。ぼくはこういう安易なハウツー系の新書を書店で見かけたり、電車の中で実際に読んでいるリーマンを見かけるたびにカバーはそのままで中身を「ファイトクラブ」の文庫版にすり替えてやろうかしらと思ってしまうのだけど……

 べつに、成功を目指すことを、野心を抱くことを愚かしいとは思わない。むしろ精神的な健康を保って生きるためには有効手だと思う。じゃあ何がこんなにいけ好かないのかというと、こういった意識高い系の言葉が持つ世界観、意識高い系の人々が有する空気感が鼻持ちならないのだ。

 成功というゴールがあり、現在地点がある。両者の距離を隔てるのは「方法(ハウツー)」の蓄積である、というシンプルな世界観。全ての問題には最適解が存在し、その最も効率的な解決法(ハウツー)は誰しもがすぐに、必ず習得可能である、というファストで安直な価値観。コミュニケーションの本質は、バラエティ番組のような「とくに意味のない会話」のことであるにもかかわらず、最近単行本か何かで読んだ成功者のサクセスストーリーをあたかも自分事のように語りひけらかし、抽象性の高いアクロニムとカタカナのビジネス用語を濫用して、やんわりとマウンティングを取るポジショントークのことをコミュニケーションだと錯覚しているような空気感/雰囲気。ヒトに興味があるフリをしながら、そのじつスマートに立ち回っている自分が一番好きなタイプの人間。彼/彼女らが醸し出す空気。

 それらすべてが、いけ好かない。否定はしない。

 社会に出て、組織に所属し、仕事をする。1週間単位のカレンダーは息つく暇もない日常に忙殺されていく。上司からはさらなる高パフォーマンスを求められ、個人としても組織全体としてもさらなる「高み」を目指すような企業風土に個性が押し殺されていく。環境に圧されて、なんとなくポージングだけでも「高み」を目指してみるか、と思った社会人がこういったハウツー系コンテンツに手を伸ばす。

 仕事で結果を出したくて、日々もがきながらそれでも解決策が欲しくて、サプリを摂るようにハウツー系に手を出したくなる気持ちは理解できる。ぼくがいっかな理解できないのは、これらハウツー系コンテンツの過剰さ、夥しさである。会社の昼休みにコンビニで「1日分の栄養」が摂れると謳うサラダがすぐに買えるほどの手軽さ/手頃さで、「ハウツー」が摂取できてしまう現今の状況。あまりにも気軽に、ファストに、コンビニエントに摂取できてしまうナレッジ=ハウツー。この過剰さ、手軽さ、アクセスの容易さ。まるでポルノだ、と思う。

 リアルもネットも、ハウツーが渋滞しすぎている。先日、個人用ナレッジベースのトレンドを検索しようと思ったら、検索トップに出てきたタイトルは「エビングハウス忘却曲線をまだ信じてるの? 効率の良い学習方法」だった。この何でもかんでもハウツーというフレームで解決できるという万能思想に名前をつけたい。問題の本質から目を背け、論じること議論することを巧妙に避けながら、表層を撫でるだけで満足する傾向に名前をつけたい。そう切実に思う今日このごろ。

 で、くだんのSIX HACKがやっているのはまさにこれで、昨今の「意識高い系」クラスタの思潮に疑問を投げかける。いや、投げかけるなんて生半端なもんじゃない。ぶん投げてる。

 猫も杓子も「もっと高みへ」と異口同音に言うけれど、あんたらの言う「高み」とは何ぞや? と一石を投じ、熱病じみた盲信っぷりに一時停止を促す。そして、この疑問の呈し方がじつに巧みなのだ。京都人的な本音と建前のあわいを衝いているというか、本心をひた隠しにしながら、本心と真逆のことを主張することで、それとなく視聴者に察するよう促す、というか。

 この番組、一見すると豊島晋作さんが出てきそうな感のある「ビジネス番組」の体裁を保っている。(テレ東のワールドポリティクス、いつも観てます)

 意識を拡張しよう(Conscious Expansion)という、それっぽいお題目のもと、モダンな内装のスタジオが用意され、番組MCがテーマに沿って現代をサバイブする効果的な有効手を伝授していく。お題を説明するVTRが流れ、スタジオに居る観覧者たちに話題が振られ、有識者ポジションの樋口さんがロジック面で保証を与えていく。

 第1回目の放送では、会議を制圧する手練手管が伝授される。といってもその内実は詭弁と抽象性で相手を煙に巻く、という実質的に無内容なものになっている。VTRが流れた後、MCの女優さんがスタジオでその詭弁っぷりを実践するのだけれど、それに対して樋口恭介さんが「うん、素晴らしいですね」とコメントしていてもう爆笑。

なんだこのシニカル具合、シュール度合いは。もはやファイトクラブやないか。

 さらに第2回目ではSNSが俎上に載せられ、とりわけ炎上について様々な手練手管が(これまた無内容なのだが)披露される。このテーマに関して、実際に炎上経験のある樋口さんがどんなコメントを(有識者というロールを演じたうえで)するのかな、とワクワクしながら観ていたのだけれど、これがまた樋口さんっぽくて大爆笑。

炎上とはある種の概念上の破壊行為である。
破壊こそが創造になっている時代。
あらゆる炎上というのは良いも悪いもなく、すべて破壊であり、破壊は良いもの。ゆえに、すべての炎上はいいものである。

 もはやデビュー当時のガンズ・アンド・ローゼズメタリカ。あるいはカート・コバーン……いずれにせよ、尖りまくっている。思想的な意味においてバチバチにパンク。
  ぼくは樋口さんのことを人文界隈のパンクロッカーだと思っている。素敵な文章を量産する文化人なジェントルマンであると同時に、なかなかどうしてパンクなアウトサイダーでもあり、この相反する2つの性質を包含しているから、ぼくは樋口さんが好きだ。

 いや、それにしても樋口さん、コメンテーター枠、有識者枠で番組に登板しているのかと思いきや、ばちばちにパンク枠として出演してるやないか。めちゃくちゃ笑った。いやぁ、シニカルでダークな笑いだなぁ。

 兎にも角にもこの番組、ブラックジョークすぎます。ジョナサン・スウィフトのようなシニカルな諧謔性シンプソンズ、あるいはブラックミラーのようなブラックジョーク感。アダム・マッケイ監督、チャック・パラニュークのような、どこか人を食った童心の悪戯心。なんと表現するのが適切なのか難しいところだが、とにかく笑えます。抱腹絶倒は必至。ぼくは吉本新喜劇と同程度に笑えました。

 とまあ、それは半分冗談として、この番組が面白いのは、視聴者にすべてを委ねきっている点だと思う。
 ぼくはこの番組を観始めた時、正直とまどった。「なんだこれ、訳がわからない」「俺は今、いったい何を見せられているんだ」──エブエブを観た時と同じような軽い混乱を味わった。けど、同時にそれとなく「これはジョーク(虚構)なんだな」と察し、そうすると笑いが止まらなくなった。ぼくはブラックコメディとして見たけど、そういうふうに見るよう演出されているわけではない。番組の内容それ自体がモキュメンタリーという虚構であり、ゆえに実質的に無内容であり、それを観て何を感じ、何を持ち帰るのかはすべて視聴者に委ねきっている。意識高い系をやり玉に挙げているわけでもなければ、そういう言説を揶揄したり茶化したりしているわけでもない。でもそういうふうに受け取ることもできる。
 この絶妙なバランス感覚がめちゃくちゃ面白い。

 SIX HACKは一見すると普通のビジネス番組だ。けど、観始めると番組のそこここに「ん?」という小さな引っ掛かりを感じる点が意図的に転がっていることに気づく。

 現代的で瀟洒なスタジオセットなのに照明は暗く、後景に座している観覧者たちの顔から上が見えないようなライティングがなされていたり、フリーメーソンのシンボルでもある「プロビデンスの目」っぽい要素がタイトルデザインに採用されていたり、再現VTRの登場人物に何故か目が描かれていなかったり、再現VTRの映像がなぜかフィルム風加工されて左右に小さく振動していたり。そして極めつけはエンドクレジット後に流れる映像である。
(裁判所に置かれている正義の女神《テーミス》が目隠しをしているのは、物事の見かけにとらわれず、真実を見抜くことを意味している。これを踏まえれば、再現VTRの人物に目が描かれていないことにシニカルな意図を感じないだろうか)

 「俺は今、いったい何を見せられているんだ……」と感じるもの。
 訳のわからないもの。
 批評家のマーク・フィッシャーは、訳のわからないものに「奇妙なもの」と「ぞっとするもの」というラベルを与え、両者を区別した。フィッシャーによると「ぞっとするもの」とは行為主体性の問いであり、「奇妙なもの」とは「家庭的」なものと「非家庭的(ウンハイムリッヒ)」なものの関係性のことだという。見慣れたはずのものを、見慣れない形で表現したSIX HACKは、フィッシャーの区別に倣うと、まぎれもなく「奇妙なもの」に属する。

 何を見せられているのかわからない。軽い混乱と混沌が面白いと感じるコンテンツ。
 こういうのをテレビ番組で観られるのは貴重な経験だと思う。
 今ならYoutubeで気軽に観られるので、未見の方はぜひこの機会に。
 最近あんまり笑ってねぇな、という笑いに飢えている方も是非ごらんあれ。

パンクはアウトサイダーの味方であり、自発的なアウトサイダーである。パンクは多数派が顔をしかめるような異質な存在であり続けることで、多数派の価値観に疑問を投げかけ、相対化し、破壊し、新たな世界の可能性を提示し続けるものである。
(中略)
G.B.Hのコリン・アブラホールは、「スーツに身を固めたビジネスマンでも、アティチュードがパンクならそいつはパンクスだ」と言っている。

樋口恭介『生活の印象』