計数されざる者たち

私文あるいは死文の集積地

劇場版サイコパス プロビデンス|感想

この2週間というもの、サイコパスシリーズを第1期から全部観直していた。仕事を終えて帰宅し、サイコパスの世界にどっぷり浸かりながら、改めて『サイコパス』という作品の魅力についてあれやこれやと思量するのは、なかなか贅沢な時間だった。で、先日、最新作たる劇場版『プロビデンス(PROVIDENCE)』を観てきた。

いやぁ、面白かった。

改めてシリーズを全部復習してから劇場に行った甲斐があった。だってこの映画、第1期の放送開始から10年超、シリーズを追いかけ続けてきた人に対する最高のファンサービス映画だったんだもの。しかも「映画」としても面白かった。

あ、先に書いておくけど、ここから先はネタバレ200%で書き散らしております。未見の方は即座にブラウザバック推奨。それから、本稿はおそらくそこそこのボリュームになるはずなので、時間のない方は気になる箇所だけ拾い読みしてください。ほな、行きまっせ。

総評

この映画、サイコパスシリーズの中でも特異な位置づけの作品だと思う。なにせ、作品の結末で常守朱が隔離施設に入ることを観客はすでに知っているのだから。結末が分かっていても観てしまう、という点ではフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』と同じ宿命を背負っていると言える。「TVシリーズ第2期と第3期のミッシングリンクを繋ぐストーリー」であると公開前にアナウンスされていたから、予め定められた結末に向かって収斂していくコンパクトな物語なのかしら、と推測していたらびっくら昆布。全然コンパクトじゃない。むしろエピック。壮大。劇場の大きなスクリーンに相応しいスケールの大きい物語にド度肝を抜かれました。

ぼくはこの映画、めちゃくちゃ楽しみました。
いやぁ、ほんまに面白かった。

てか、狡噛がカムバックした挙げ句、ドミネーターまで持った日にゃあんた。もう涙腺ガマンなんてレベルじゃないですよ。いくらレイトショーで客席ガラガラだからといって、いい歳こいた大人が湿っぽい鼻水の音を鳴らしながら感涙するのはさすがに赤面案件なので、気弱なぼくは「もし涙がこぼれてもすぐに拭えるよう」という浅慮から、頬杖をつく、というカモフラージュをかますことで感涙のマジノ線を構築したわけです。

結果、無駄でした……

劇場に入る前、あれだけ泣くまいと心に誓った自分はどこへやら、ぼくの涙腺はエリコの壁よろしく瞬時に崩壊。カモフラージュをかまして構築したマジノ線はあっけなく瓦解。てかね、この映画、ファンサっぷりがエグいのよ。どれくらいエグいかというと、『名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌』なみにエグい。 (まぁ、『探偵たちの鎮魂』の場合はオールスター全員集合というファンサで、本作『サイコパス プロビデンス』のファンサは同じアッセンブルでもベクトルも違えば文脈も違う。と言えば元も子もないけど)

と、ただ感情を吐露しまくったところで読み物としてはゴミだと思うので、面白かった点を具体的に挙げていきたい。個人的に刺さった点は3つある。まず、映画として面白かったこと。次に、シリーズを追いかけてきたファンにきっちり報いてくれるサービス要素。それから、サイコパスの世界観をさらに拡張し、次の展望に繋げたストーリー。この3つだ。

ストーリーやテーマといったヘヴィな内容は後述するとして、まず「映画」と「ファンサ」について取り上げたい。

1本の映画として

サイコパス プロビデンス』はサイコパスというアニメシリーズのディケイドを継ぐ劇場作品だ。なにを今さら、そんな自明なことを。「頭、湧いてんのか?」という野次が飛んできそうだけど、これは本作が一本の「映画」として面白い、と主張するための確認事項だ。本作は「劇場版アニメ」でもなければ「アニメの劇場版」でもなく、映画原理主義的な意味に於いて1本の「劇映画」として成立している。

本作が、ただ劇場スクリーンサイズに最適化されただけのアニメ作品(でっかいテレビに流れるアニメ)ではなく、1本の劇映画として成立しているのは冒頭から明白だ。公海上の船舶でピースブレイカーと外務省行動課が戦闘を繰り広げるアクションシーン。なんとなく『ボーン・アイデンティティ』っぽい絵面だな、とは思ったけど、狡噛がムササビスーツで輸送機から降下した瞬間、すぐ腑に落ちた。「ボーンっぽい」んじゃなくて、「ボーン」なんだ、と。

開巻劈頭から惜しげもなく振る舞われる豪華なアクションシーンは、今作には「冒険小説的」な要素が、「スパイ映画的(謀略小説的)」な要素がありますよ、これは単なる刑事ドラマじゃないんですよ、という高らかな宣言に他ならない。

そう、本作はサスペンス映画にとどまらず、スパイ・アクション映画的な要素に満ち満ちている。冒頭のアクションに続く次のシーンでは、逞しく成長した朱ちゃんが各省庁のお歴々を相手に口角泡を飛ばしている。エグゼクティブなおっさん達が長卓を囲んで議論するのは、冒険小説・諜報小説の十八番シーンだ。そして本作には慎導篤志と矢吹局長という2人のメイン官僚キャラが用意されている。

さらに極めつきは「ストロンスカヤ文書」というマクガフィンだ。ヒッチコックの時代から、スパイ映画に於けるマクガフィンは「機密文書」であると相場は決まっている。「文書」という名称になっているが、その実態は世界各地で起きる紛争を数値化した「紛争計数」の算出方法。ストロンスカヤ博士の専門分野を考慮すれば、おそらく理論モデルかシミュレーションモデルなのだろうけど、これをわざわざ「文書」と命名するのは、冒険小説/スパイ映画に対する目配せだろう。

そもそも、今作のヴィランたるピースブレイカーの設定からして、もう冒険小説/スパイ映画の匂いがぷんぷんする。ピースブレイカー、その正式名称を「外務省 海外調査部現地調査隊」。準軍事作戦を行う外務省の海外実働部隊であり、現在は解体され、海外で破壊活動を行う武装集団に成り下がっている……要するにこれ、CIAにおける特別行動部隊(SAD)みたいなもんでしょ。まぎれもなくパラミリやん。

本作が冒険小説的/スパイ映画的であることは、クライマックスのアクションシーンからも見て取れる。国家樹立を宣言し、日本政府、ひいてはシビュラシステムに色相判定を要求するピースブレイカーの本拠地である北方諸島。極寒の孤島に強襲揚陸艇で潜入する朱ちゃんと狡噛たちの姿は、さながらメタルギアのよう。

話は逸れるけど、この北方諸島、劇中のセリフで「機械が自己増殖した結果生じた」と、こともなげに説明されている。ヒトの手を離れ、プロトコルに従って自己増殖を繰り返す機械たち──グレッグ・イーガンの短編小説にありそうなSF的設定に、ぼくはニヤニヤが止まらなかったサイコパスシリーズって、こういうSF的なガジェットをさり気なく放り込んでくるんだよね。シーズン3でようやく焦点を当てられた「廃棄区画」の設定だったり、シーズン1の終盤で突如明かされた日本の食料自給問題、「ハイパーオーツ」の設定だったり)

過去に公開された作品も含めて、サイコパスの劇場作品はアニメ作品である以前に、常に「映画」であろうとしてきた。意識的に「映画」であろうとしてきたし、「映画」であることに自覚的だった。

劇場版の第1作目では英語というツールを使って、『ブレードランナー』と同じ演出を試みていた。理解できない意匠としての言語/外国語──英語。かつて『ブレードランナー』でリドスコが文化的コードとして、世界観を補強する背景美術の一部として日本語を扱ったように、劇場版サイコパス第1作目は、映画という空気感を演出するツールとして英語を使っていた。

劇場版2作目『ファースト・インスペクター』では、限定された空間内でのサスペンスを描いた。緊張感を高める舞台装置としての限定空間──第1期から長らく描かれ続けてきた公安局のビルがその舞台というコペルニクス的転回。これ、映画の構造としては『ダイ・ハード』1作目と同じなんだよね。梓澤廣一が、厚生省ノナタワー地下に降りてシビュラシステムの真相を知る終盤まで、物語(事件)は公安局のビル内で起きていて、事件の収束とともに登場人物たちが限定空間から解放される、という構造もまさに『ダイ・ハード』。これが結果的に『ファースト・インスペクター』の「映画っぽさ」を補強していた。

そう、サイコパスシリーズの劇場版はアニメ映画であると同時に、「映画」であることにコンシャスな映画なのだ。そして今作『サイコパス プロビデンス』には、ぼくの大好きな冒険小説/スパイ映画的な要素が散りばめられていた。

ぼくはもうこの時点で大満足でした。
冒頭の狡噛ムササビスーツアクションを観るためだけに2回目観に行こうと思う。

横溢するファンサ、崩壊する涙腺

サイコパス プロビデンス』は映画として面白い。そんでもって、サイコパスというシリーズを追いかけ続けてきたファンに対する報恩がすごかった。ファンサがエグすぎて面白いというレベルを超越して、もはや尊かった。塩谷監督がTwitterで「サイコパスファンが気づくネタを100個以上用意した」と公言しているのは周知の事実だが、いやはや……そんな余裕なかったですよ。

サイコパスシリーズの中でも1期が好きな人は多いと思う。なかには「サイコパスは1期しか認めん」という原理主義者もいるらしい。10年超もシリーズを紡いできて、第1期が斯くも圧倒的な人気を獲得しているのは、狡噛と槇島という2人のキャラクターに依る部分が大きいと思う。もちろん、第1期は22話という長尺だったとか、引用のオンパレードという文学的要素が濃厚だったとか、虚淵が居たからだとか、いろんな理由付けができると思う。けど、狡噛と槇島という2人の竜虎を抜きにしてサイコパス第1期の魅力について語るのは難しい。

そう、みんな何だかんだ言っても、狡ちゃんが好きなんだ

そんな、「みんな大好き狡噛慎也」が本作では主要キャラクターとして登場したうえ、喋る、走る、殴る、撃つ、とまあよく動き回る。シーズン2、3で狡噛ロスを噛み締めていた人々に「狡噛成分、足りてねぇんだろ。補給しとけ。おらよっ」と言わんばかりの大盤振る舞い。

外務省行動課との合同捜査態勢が敷かれ、狡噛が古巣である公安局刑事課のオフィスに立っているシーンとか、もうヤバかったね。「狡ちゃん、色々あったけど戻ってこれたんだなぁ……」なんて、しみじみ感慨に耽り始めたらもう涙ガマンできなかった。劇場版1作目で宜野座が言ったセリフが狡噛との再会シーンとリンクしていて、時の経過を感じてまた涙。作中世界の時間と現実世界の時間経過が同じ、という設定になっているから、胸に迫る感慨もひとしおだった(狡ちゃん、36になったんだよなぁ……そりゃ俺も歳取ったはずだわ……)

監視官として大成した朱のことを宜野座が慕っているのも時間の経過を感じさせて感涙モノ。長年の経験に依るお互いの信頼関係というか、現場指揮権を宜野座に移譲して、本来なら単独行動できない執行官に自由裁量を与えるシーンとか、その応答として宜野座が朱に「あなたも気をつけて」と返すところとか。いやぁ、挙げればほんとキリがないんだけど、こういった時の流れを感じるディテールが心に刺さる。刺さる、刺さりまくる……

事前にYoutubeで観たキャストと監督の座談会によれば、宜野座の髪型がお団子になっているのは多忙を極めている、という設定らしく、この変化も2期のポニテ時代から時間の経過を感じさせる。(ラストの激闘を終えて、結んだ髪がほどけた時は、パト2のラストシーンを思い出してしまったけど。あれ? 忍さん……? いや、それ言うなら中の人同じだから禾生局長か

そんでもって、これが一番涙腺にキたんだけど、本作のアクションシーンで流れるBGMが第1期の「PSYCHO-PASS」なんだよね。この曲、作品のテーマ曲かつ看板BGMだから、シーズンが更新されるごとに毎度毎度、アレンジが施されているんだけど、第1期のオリジナル曲が一番しっくりくるのよ。第1期の1話目をリアルタイム視聴しているとき、クライマックスでこの劇伴が流れて鳥肌が立ったのは今でも覚えている。そんなひときわ思い入れのあるBGMが流れるなか、狡噛と宜野座がシラットの技をキメながら銃をぶっ放す──もう、これだけでお腹いっぱい感がすごかった。このシーンが観られただけで、1800円の木戸銭を払って劇場に行った甲斐があった。それくらい興奮した。

衒学的で難解なセリフをイケボで滔々と語る、みんな大好き雑賀譲二先生も登場するし、かと思いきや朱ちゃんに言葉を遺して逝ってしまうし、これまで散々同人誌で描かれてきた狡噛と朱ちゃん恋愛模様にも踏み込んでいるし、さらには試作型ドミネーターやら強襲型ドミネーターも登場する、というファン要素のオンパレード。

ぼくは出島のシーンあたりから「ファンサが渋滞してる……」と心の中で呟き続けておりました。非常に細かいんだけど、ピースブレイカーの本丸を叩くクライマックスのアクションシーンで、狡噛と花城がドミネーターを持ったときに流れるドミネーターの音声ガイダンスが「使用許諾確認。限定ユーザーです」となっていて、ここでまたうるっときました……

これだけファンサ要素が横溢してるのに、慎導灼、炯・ミハイル・イグナトフ、舞子・マイヤ・ストロンスカヤといった3期の主要メンバーはもちろん、パスファインダーの2人も、法斑静火と彼の父親も登場する、という絢爛豪華なアッセンブル。

これだけでもうお腹いっぱいなのに、第1期原理主義者が狂喜乱舞するであろう高偏差値文化系オタク要素まで盛り込まれている(ジュリアン・ジェインズの『二分心論』、コヘレトの手紙)という徹底っぷり。

ファンサが、ファンサが渋滞してる……

10年超にわたってシリーズを追いかけ続けてきたファンの熱意に真摯に報いてくれる、素敵なサービスでした。本当にありがとう。感無量とはこのことよ。

閑話休題:気になった点

ストーリーやテーマといったヘヴィな内容に進むまえに、閑話休題として作中で気になった点をいくつか挙げてみたい。

最も気になったのは、ラストシーンで朱に撃たれた禾生局長の肢体から紅い血が流れている点だ。あれはブラフなのか、それとも何らかの意図があるのか?

槙島聖護に頭蓋を粉砕され、鹿矛囲桐斗にエリミネーターで肉塊に帰され、劇場版2作目ではあろうことか公安局庁舎屋上から自ら投身……といった具合で、過去のシリーズで散々殺されてきた禾生局長。これまで幾度となく禾生局長の死体を観てきたぼくらは知っている。全身サイボーグである彼女の体液が人間のような赤色ではなく人工的な緑色であることを。

これは、衆人環視のただなかで射殺される、という朱の書いた筋書きにシビュラシステムが適応した──つまり世間を欺くためのブラフだった、と考えるのが妥当だろう。そもそも全身サイボーグを9ミリかそこらの拳銃弾ごときで射殺できるとは考えにくい。よしんば弾丸が肢体を貫通していたとしても、第三者の目があるパブリックな場で緑色の血なんて流した日には、翌日のニュースが「公安局局長、サイボーグか?」というヘッドラインで埋め尽くされるだろうことは想像に難くない。

ここで気になるのが、くだんの射殺パフォーマンスを演じるにあたって朱とシビュラの間に何らかの合意があったのか、という点だが、これは何ら合意はなかったと考えるのが当然だ。シビュラシステムは自らを法と同格に押し上げ、日本国から「法」そのものを撤廃しようと画策していた。朱が射殺パフォーマンスを演じたのは、シビュラの企図をくじくためであり、他に選ぶところがなかったからだ。

とどのつまり、紅い血が流れているのはシビュラシステムが世間体に配慮したゆえだろう。唯一残る疑問は、どうして禾生局長はあの場で倒れたのか、ということだ。全身サイボーグの身体に拳銃弾など痛くも痒くもないはずなのに、わざわざあの場で倒れ伏し、あろうことかブラフの血まで流す必要はあったのか?

朱が拳銃を取り出し、発砲したとき、今この場で死体を演じずに平然としていた場合、世間に与える影響が如何ほどのものなのか──それを瞬時に計算し、シミュレートしていたと考えるなら、一体のサイボーグにロードされた単一の脳ユニットとはいえ、シビュラシステムの計算能力は侮れないと言える。

禾生局長といえば、彼女から「落とし前をつけろ」とヤクザまがいの脅迫を受けていた慎導篤志のことも気になる。甲斐・イグナトフを射殺しても平然としていたことから、おそらく慎導篤志も免罪体質者なのだろう。禾生局長の言う「落とし前」とは、シビュラシステムに組み込まれることを指していると思われる。だから、自らの脳がシビュラに組み込まれるのを避けるために、慎導篤志は朗々たるスピーチの後、拳銃でこめかみを撃ち抜いた。

もう一点、気になったのは「ストロンスカヤ文書」のことだ。シビュラシステムを海外配備したときの影響をシミュレートした理論である、と劇中の序盤では説明されていた。だがのちに、その実相が世界各地で起きる紛争を「紛争計数」として数値化する方法であると判明。この「方法」が計算方法(数式)なのか、理論なのかは劇中でつまびらかにされていないが、ストロンスカヤ博士の専攻分野を鑑みるに、何らかの理論モデル、シミュレーションモデルである可能性が高い。

本作の終盤で、「紛争計数」という概念を取り込んだAIジェネラルをさらにマージしたシビュラシステム。シビュラシステムは、第2期のラストで「集団的サイコパス」という概念を新たに獲得し、常守朱に対し、個人に加えて集団もサイコパス測定の対象となる未来がそう遠くないうちにやってくる、という趣旨の警告を与えていた。それらを勘案すれば、紛争という社会集団同士の争いをシビュラシステムが裁定できるようになる、と考えられる。

シビュラシステムは第2期のラストで「集団」という概念を取得し、今作の「ストロンスカヤ文書」によって集団を数値化する手段を手に入れた。概念と手段が揃った。集団的サイコパスの社会実装は秒読み段階に入ったと考えるのが道理だろう。この個人と集団、というシビュラ測定の新たな視座は、次のシーズンの下敷きになるのではないか。

ぼくは劇中で「紛争計数」ということばを耳にしたとき、『虐殺器官』のなかで”虐殺の文法”を使って世界中で起こる虐殺の予兆を嗅ぎ取っていたジョン・ポールを思い出したのだけど、Twitterを見ていると同じ発想に至った人がけっこう多かったらしい。同じく『虐殺器官』つながりで言えば、ピースブレイカーひいては砺波が神と崇めるAIジェネラルの設定が、これまた虐殺っぽい。本来はメンタルケア目的の医療用AIながら、外地の紛争で大量虐殺を遂行できるよう改造された、という設定。ほら、なんとなく『虐殺器官』の痛覚マスキングと感情適合調整を思い出すでしょ?

それから、これは以前から気になっていたのだけれど、サイコパスの世界に於ける「軍」ってどういう位置づけなんだろう。今回、冒頭の会議シーンで国防省法務省のお歴々が登場していたけど、日本以外の国が内紛でズタボロになっている世界観において、安全保障やら抑止力といった言葉は現代ほどの価値を持っているんだろうか。

劇場版1作目を見たかぎりだと、この世界における日本国は海外諸国に「シビュラという法と秩序」を輸出し、他国を啓蒙する現代アメリカ的な性格が強いので、他国の内紛に軍事介入し、内政干渉する道具立てとして、軍隊が機能していると考えるのが妥当なのか? 日本の外は紛争だらけという設定からして、軍に入隊して外国に派遣されると色相悪化は避けられないはずだ。とすれば、この時代の軍隊は『ゲーム・オブ・スローンズ』のナイツウォッチよろしく、社会的な落伍者たちの体の良い流刑地になっているんだろうか。

テレビシリーズ第2期で須郷の古巣である、国防省のドローン兵器施設が出てきた時に思ったけど、おそらくこの時代の国軍兵力──とりわけ歩兵の大半はドローンが担っているんだろう。だから要求される人員としてはさほど多くないはず。人口が激減し、首都圏以外は著しく過疎しているという設定だし(第1期の雑賀先生のセリフにあったし、劇場版1作目で旅客機の窓外に映る日本列島を見れば一目瞭然)

それにしても、サイコパス世界の政治的力学のトップ構造がどうなっているのか、すごく気になる……

そして、最後に気になったのは「ダモクレスの剣」だ。鑑賞後にTwitterを見ていると、「ダモクレスの剣が出てきた」というツイートを見かけたのだけど、どこに出てきたんだろうか。全然気づけなかった。

やっぱり2回目観に行くべきだな、これは。

シビュラシステムは神ではない

とまぁ、ここまで『サイコパス プロビデンス』の面白さを「映画」と「ファンサ」という2つの視点から語ってきた。ここからは面白さの根幹と言っても過言ではない「物語/主題」について書いていきたい。

サイコパスという作品が第1期からずっと変わらず問い続けてきたこと。それは幸福の形であり、社会の在り方だ。人にとって、社会にとっての真の幸福とは一体何なのか? どうすれば、より良い社会が築けるのか? そのために我々は何ができるのか? シビュラシステムは人類に何をもたらすのか──恩恵か、それとも害悪か。

理想的な幸福を社会に実装する装置「シビュラシステム」を現実世界に代入することで、人類社会のあるべき「幸福」の姿を導出する──このエクストラポレーションこそがサイコパスという作品の魅力であり、作品世界の根幹を成す思弁だ。

そして今作では、シビュラシステムが完全ならば、法を撤廃してもいいのではないか? という立問がなされる。

ここで改めて、シビュラシステムについて確認しておこう。シビュラシステムとは、厚生省が提供する「包括的生涯福祉支援システム」である。サイマティックスキャンによって計測した生体力場を解析し、市民の深層的な精神状態を科学的に分析。そうして得られたデータをサイコパスとして数値化し、その数値に基づいて職業適性から恋人適性まで、様々な適性を個人に提示/推奨する。それらの公共サービス全般を提供する基幹インフラである。

ドミネーターの判断基準にもなっている「犯罪係数」は、サイコパス(色相)を犯罪者摘発という目的のもとに数値化したものを指す。つまり、シビュラシステムは全国民を「犯罪者」と「それ以外」という2種類の人間に峻別するが、それだけがシステムの機能ではない、ということだ。この前提条件を誤ったまま、今作の主題である「法の撤廃」を「そんな非現実的な話があるわけない。ナンセンスだ」と切り捨てているレビューブログを読んだので、くどいようだが確認させてもらう。

サイコパスの世界では、現実世界の刑法にあたる機能をシビュラシステムが担っている。そう、物語の開始時点からして既にシビュラシステムは法の一部として機能しているのだ。そもそもの時点からして、サイコパスの世界観では三権分立が成立していない。現実世界で犯罪者を裁く場合、逮捕→起訴→実刑という流れになるが、サイコパスの世界ではこのプロセス一切が存在しない。裁判所が無いからだ。犯罪者か否かを裁定するのはシビュラシステムであり、その根拠となるのは「犯罪係数」だ。サイコパスの世界には裁判所も刑務所もなく(隔離施設に入るのは服役ではなく治療だ)、警察による逮捕という概念自体が存在しない。

第1期で常守朱槙島聖護と初めて対峙したシーンで、市民憲章に基づいて同行を求める描写があるが、これはあくまで任意同行だ。この市民憲章というのはおそらく、シビュラシステム統制下の社会で暮らす人々に、システムの勧告に従うような気風を培うための綱領なのだろう。法的強制力が弱いゆえに、槇島のような札付きでも任意同行で済まされる。

そもそも「法」とはなんだろう。法とは国家の規範であり、人間がより良い社会を築くためのルールだ。法と一口に言っても様々な「法」がある。自然法やら実定法、成文法、公法、私法、社会法……今作で取り沙汰されている「法の撤廃」は、おそらくこれら全ての法の撤廃のことだろう。冒頭の官僚たちが議論しているシーンで、法務省の解体も検討されている、といった発言があったことからも、撤廃の対象となるのは刑法だけではないはずだ。(というか、過去のテレビシリーズで裁判官やら弁護士といった職種がかなり昔に消えた、というセリフがあったし、シビュラシステムの正式運用が開始された時点で、現行の刑法は実質的に撤廃されたも同然だと考えられる)

てか、すべての法を撤廃して日本国は国家として維持できんのか?

それが不可能と切り捨てるわけにはいかんのだわ。

犯罪者の判決を下す裁定者としての機能以上の多くを、シビュラシステムは有してるからな。

全ての事象を正しく、公平かつ公正に、平等に断じることのできる存在。もしそんな無謬を可能にする存在があるとすれば「神」に等しい。今作『プロビデンス』が問うているのはまさにこれだ。

シビュラシステムは神なのか? シビュラシステムが神に等しい全能存在ならば、国家の、社会の基盤である法を取り除いても何ら不都合は生じないはずだ、という仮説を投げかけているのだ。本作のタイトルに冠した「プロビデンス」という言葉は、日本語に訳するなら「神の摂理」となる。フリーメーソンのシンボルマークとして名高いプロビデンスの目は、すべてを見通す全能の目を意味する。何もかも見通す万能存在とはシビュラである。シビュラは神なのか否か──

シリーズを追いかけてきたぼくらは、その答えを痛いほどよく知っている。
シビュラは決して神ではなく、瑕疵を負ったシステムであることを。

ここでシビュラシステムを構成するモジュールについて立ち返ってみたい。あらゆる法を撤廃してもシビュラが万能ならば国家(社会)が正常に機能する、という仮説に現実的な説得力を持たせるためにはシビュラシステムの因数分解が必要だからだ。

シビュラシステムの詳細なメカニズムは作中で明らかにされていないが、おそらく次のような複数モジュールの複合体だと推測できる。

  • 膨大な並列演算処理を可能とするスパコン量子コンピューター)
  • 犯罪歴、逮捕歴など現実世界の警察/諜報機関が有するような犯罪データベース
  • 人間を観察し続けることで蓄積された統計情報に基づく人間の行動予測に関する理論
  • ストレスという概念の習得/理解
    • (個々人によって感じるストレスには差異がある。ストレスという概念を理解したうえで、個々人のパーソナリティを理解し、ストレス要因を分析し、判断できる能力)
  • ストレス、という定性的な事柄を定量化する計算手法
    • (人間とは異なるプロセスで、しかし人間と同じように理解し、判断できる能力が必要となる。ここで問題になるのは、人間と同じように理解できるということはつまり、その裁定者がたとえ機械であったとしても恣意的な判断になるのではないか、ということ)
    • (ユニット化され、認知処理能力を大幅に増強した脳が担っているのは、おそらくこの処理)
    • (作中の描写を見る限り、シビュラシステムは200余の脳ユニットが協議していると思われる。この協議によって「色相」の最終ジャッジを行っている。だがこの協議によって合意に至るというプロセスは人間の意思決定モデルと同じでもある)
  • 生体力場を解析する能力
    • (そもそも、「生体力場」とは何なのか?)
  • 全国民の戸籍情報、財務状態、家庭環境、行動履歴、医療情報、職歴など……個人に関するあらゆるデータ。複数データベースを参照できる権限。
    • (全国民にIDを付与し、個人の情報を一元管理するシステム。マイナンバー制度がその黎明だろう)
    • (街頭のいたるところにスキャナーが設置された社会。システムに認証されることが、とりも直さず自己の存在証明となる。IDを持たない者は社会的に存在しないと見做される)

ときは22世紀──現代よりも数層倍、情報化が加速し、あらゆるモノがオンラインに接続された時代。個人に関するあらゆる情報はIDのもとに一元管理されているはずだ。そして「色相」が社会的な階級を保証するのだから、それら一元管理された個人情報のすべてにシビュラシステムが介在しているのだろう。個人に関するあらゆる情報を参照できなければ「包括的生涯福祉支援システム」と名乗る資格はないのだから。

斯くもシビュラシステムが社会にしっかりと巣食っている状況下なら、シビュラに不可能はないはずだ。あらゆる法を撤廃したとしても、国家としてはこれまで通り正常に機能するだろう。全国民にあらゆる公共サービスを遅滞なく提供できるだろう。ただし、「シビュラシステムが真に万能であるのなら」という留保がつくのだが。

もしもシビュラが神なら、唯一にして絶対の規範となり得るのなら、それは法をも包摂する。ならば、法を撤廃しても影響はない。これがシビュラシステムの主張する「法の撤廃」である。だが、過去何度も描かれてきたようにシビュラは決して神ではない。

シビュラシステムの不完全性のひとつは、ヒトをただしく理解できていないことだ。人間は真に理性的な存在ではない。人間はヒトである以前に動物であり、理性だけでは推し量れない矛盾を抱えた複雑な存在である。人間は歩く矛盾であるという可能性をシビュラシステムは完全に度外視している。

残虐でいびつな部分を人間だれしもが持っている。殺し合いは太古から現在に至るまで人間の娯楽だった。フィクションは血で塗れているし(アガサ・クリスティの著作だけで一体何人が死んだと思う?)、人類の歴史も血で真っ赤に染まっている。歴史家の推定によれば、記録に残る有史時代に入ってから発生した戦争の回数は、1万5000回をくだらないという。またフランスの社会学者ブートルーは、講和条約をともなった戦争が少なくとも8000回に達していると指摘している。

ローマのコロッセオ、ショービジネスとしての格闘技、FPSゲーム。ヒトは血を好む。健康に悪いと分かっていながらジャンクフードを食べるし、酒を飲み、タバコを吸う。考えている事と、言ってること、実際やってること──この三者がバラバラなのが良くも悪くもふつうの人間だ。斯くもヒトは欠陥だらけで矛盾に満ちている。だが、その矛盾すらもヒトの個性である、という事実をシビュラシステムは許容しない。そういった個性は「シビュラ的ではない」として、矛盾に満ちた個性を否定する。槙島聖護は否定の余地なく人殺しだが、矛盾と欠陥に満ちた人間の個性を愛していたという点に於いて、どのキャラクターよりも人間的だった。

第1期の宜野座のセリフを引用するならば、人間という生き物は「歴史に学んで」いても結局のところ、経験を通してしか何事も体得しえない愚かでちっぽけな存在である。法は人がつくるものだ。人は間違いを犯す。ゆえに法もまた、ほころびを持つ。真に理性的で公平な判断を下すことができる存在がいるならば──矛盾と欠陥を抱えた人間の上位存在がいるならば、その存在に統治を委ねればいい。人間よりも理性的で完璧な存在、AIに主体を明け渡せばより良い社会が築けるのではないか。これがAIジェネラルを擁立して国家樹立を宣言した砺波の主張だ。

「人が人を支配し続ける限り、必ず誰かが不当に殺される」と砺波は言う。外務省の海外実働部隊として外地で悲惨な戦禍を目の当たりにしてきた砺波の経歴を考えると、このセリフはなかなか重い。

シビュラは不完全なシステムだ。ヒトがそうであるように。そしてシビュラはヒトの不完全性が許容できないゆえに不完全なシステムなのだ。シビュラシステムが万能の「神」でないのなら、法を撤廃することはできない。だから常守朱は本作のラストシーンで禾生局長を射殺したのだ。

常森朱の抱くビジョンとは

常守朱は強かだ。霜月美佳とは異なり、決して妥協しない。シビュラ社会で生きていくためには、ある時点で妥協する(シビュラ的になる)必要がある。システムに反抗すれば色相が悪化し、落伍者のレッテルを貼られるからだ。だが、朱は妥協せず、人間の可能性を信じ続ける。

人間は矛盾と欠陥だらけであり、弱さ/脆さを持った存在であるとわきまえたうえで、それでも尚、朱は人間の可能性に賭けている。シビュラシステムの真相を知り、システムの不完全性を幾度も目の当たりにし、シビュラシステムを軽蔑しながらもその存在を受け入れている。オーウェル風に言えばダブルシンク二重思考)を器用にやってのけている。サイコパスに登場した過去のヴィラン達は、人間の弱さ/脆さを搦め手に、シビュラ社会の欠陥を衝いてきた。だが常守朱は違う。法とシビュラを共存させることによって、両者の欠陥を補完し合うよう促す。

法とは歴史の先達たちが連綿と築き上げてきた努力の結晶である。法を撤廃するということは、それら全ての蓄積が、努力が灰燼に帰するということだ。だから朱は絶対に法を守らなければならないと主張する。法の撤廃とは歴史に、人類に対する敬意を欠いた暴挙に他ならず、法とシビュラという両輪を運用することによってシビュラの不完全性を補うことができるからだ。

20世紀後半、冷戦の終結とともに敗北した社会主義に取って代わった民主主義は、現代のグローバルスタンダードとなった。建国から現在に至るアメリカを見れば明らかなように、現代の「模範解答」である民主主義とて、いまだ発展の途上にある(近年は国内の分断が加速して、むしろ後退しているような気もするけど)

法も社会も、決して完遂されることのない営為に他ならず、たゆまぬ自助努力が要求される。決して終わりのないマラソンのようなものだと思う。日本の場合、他国と比べて歴史が長いので、先達たちが作った礎石が常に用意されていて、アメリカのようにゼロから現在に至るまで地続きになっているという実感が湧きにくいのかもしれない。常に議論し続け、考え続けること──その蓄積こそが法である。決してラクな道ではない。けれど、常守朱はその茨の道を選んだ。人間の可能性に賭けているがゆえに。

シビュラシステムのある社会とは何だろう。法もシビュラも、目指す理想は軌を一にしている。人々を幸福たらしめること。最大多数の最大幸福。シビュラシステムの導入によって、劇中の日本は表面上、理想的な幸福を実現している。シビュラシステムによる推奨に従っていれば、おのずと幸福が実現できると約束された世界。

理想郷。桃源郷ユートピアギリシャ語で「どこに存在しない」を意味する「ユー」と「場所」を意味する「トポス」を掛け合わせた言葉。トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作『ユートピア』に登場する架空の国家の名前。

シビュラが定めた「あるべき姿」に向けて、全国民が教導される世界。そこには文化的モザイクも多文化主義も入る余地は残されていない。多様性は消失し、個性の幅は今よりぐっと狭まっているはずだ。トルストイは『アンナ・カリーナ』のなかで、次のように述べている。「幸福な家庭はすべて互いに似通ったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」。

右を見ても左を見ても、同じような「型」に当てはまった人間ばかりが量産されていく世界。シビュラシステム自体が人間の個性を理解できていないのだから、個性のバリエーションが乏しくなるのは当然の帰結だ。そんな人間の個性を偏愛していた槙島聖護は、シビュラシステムの御託宣に唯々諾々と従って生きる人間は、生きながらに死んでいるのと同じだと考えた。人は自らの意思に従って行動したときのみ価値を持つ、と。「人は考える葦である」というパスカルの言葉を引くまでもなく、つねに考え続けることで人は真の意味での自由を得る。これは常守朱の選んだ結末と、その選択に至った思想とも共鳴している。

人々にとって、社会にとって真の幸福とは何なんだろうか。これはサイコパスが第1期から変わらず問い続けてきたことであり、常守朱が様々な経験を通しながら探し続けてきたものでもある。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「幸福とは何か」という問いに次のように応答した。よい大工とはなにか。それは「よい家を作る」という、大工としての仕事を果たす人である。よい笛吹とはなにか。それは「よい演奏をする」という、笛吹きとしての仕事を果たす人である。それぞれのよさは、それぞれに特有の「技術」の「卓越性」に他ならない。

では人間に特有の「技術」とはどんなもので、「卓越性」とはなんだろうか──つまり、よい人間とはどんなものか。これがアリストテレスが立てた問いだった。アリストテレスはこの答えとして「思慮《フローネシス》」を挙げている。注意深く、物事を様々な側面から考えることであり、他人の立場を慮ることである。雑賀譲二が朱に遺した言葉「正義も真実も多面的だ。上から見ないと理解できないこともある」が思い出される。

脳は省エネを好む傾向にある、という事実は多くの研究によって明らかにされている。人の脳というのは、意識的に考えようとしない限り、考えるようにはできていない。感情は判断のショートカットだし、往々にして理性よりも先行する。だが、そんな脳のデフォルト状態に抗って、思考し、議論し続けること。それこそが人々が、ひいては社会がより良くなるための唯一の道なのだと、常守朱は示している。

幸福とは、外部から付与される状況ではない。幸福とは個人が感じる状態のことだ。他者(シビュラシステム)から押し付けられた「幸福」は、果たして本当の幸福なんだろうか。人間は他人はおろか自分のことすら十全に理解できない。そんな自分ですら気づけていない本質を汲み取って、当人にとって最適な道標を示してくれるシビュラシステム。本人すら気づいていないのだから、「これがあなたにとっての幸福です」と押し付けられても、実感など湧くはずもない。それでもシビュラの御託宣を受け入れてしまうのは、システムに対する盲目的な信頼ゆえであり、システムを疑う能動的な思慮の欠如ゆえである。

近代というのは、全ての人間を計算可能で予測可能で管理可能で、機械的な合理性のもとに画一化しようと試みたプロジェクトだ。近代というプロジェクトが人々から生の実感を奪って久しい。何も考えず、何の疑問も持たず、ただ時の流れるのに身を任せ、言われたことだけをやり、生きて死んでいくことで、それで社会はこれまで通りに回っていく。近代という仕組みは、そのようにしてぼくたちに、ただ単に生きて死ぬことを働きかける。

世界的に二極化が進んでいる。富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなった。2016年のトランプ/ブレグジット騒動を皮切りに、先進諸国の国内分断も加速した。サイコパスの設定では、シビュラシステム導入の契機となったのは貧富の格差による国内の内戦と暴動となっている。現実世界がサイコパスと同じ轍を踏まぬよう、本作を見終えたぼくたちは「よりよい社会」について倦まず弛まず考え続けていきたい。

「人間とは悪徳の動物である。犯罪は、生命の存在に欠かせない条件だ。社会は本質的に犯罪なのだ」
『闇の奥』を書き上げたあと、ジョセフ・コンラッドが友人にあてた手紙