計数されざる者たち

私文あるいは死文の集積地

アブソルート・コールド

 「令和日本に放つサイバーパンク巨編」──こんな惹句が帯文に書いてあったら、買うしかないじゃないか。そういうわけで、結城 充考さんの新刊『アブソルート・コールド』を読んだ。

サイバーパンク」というキャッチーなフレーズに惹かれて買ったのだけれど、ぼく自身、サイバーパンクに明るいわけではない。ブルース・スターリングウィリアム・ギブスンを読んで、リドスコの『ブレードランナー』を観た、という程度のミーハーでしかない。

 学生時代、PSYCHO−PASS第1期がリアルタイムで放送していた。劇中で、かの槙島聖護大先生がウィリアム・ギブスンに言及していて、ミーハーなぼくはさっそく書店に『ニューロマンサー』を買いに行ったものだった。煩悩に塗れた思春期のボンクラ学生だった当時のぼくにとって、『ニューロマンサー』はぶっちゃけよくわからなかった。「うん、なんかすげぇな」という、漠とした衝撃は受けたものの、物語の筋道がよくわからなかったのだ。

 PSYCHO−PASSの第一期が放送されてから10周年。時は進んで令和5年、2023年──『ブレードランナー』の時代設定であった2019年を軽々と追い越した現代。『ニューロマンサー』で”サイバーパンク”の洗礼を(知らぬ間に)受けたボンクラ学生は大人になり、「サイバーパンク」の思想的な定義とジャンル的な定義を区別できる程度の分別はついた(はず)。

 話は逸れるけど、10年経ってから第一期のPSYCHO−PASSを見返してみると、けっこう真面目にSFしていて感動してしまった。

 いや、公安局刑事課の入っているビルの外観はもろにブレードランナーLAPDだし、猥雑とした繁華街やネオンサイン、雨が降った陰惨な空気感、エスタブリッシュメントからプロレタリアートまであらゆる社会階層の人々を使って世界観の奥行きを描写する方法なんかも「ほぼ」まんまブレードランナーなんだけど、それは脇に置くとして、スペキュレイティブ・フィクションとしてのSFという意味合いで、ちゃんとSFしてるなと思った。

 犯罪計数という数値によって国民を「犯罪者」と「それ以外」に二分化するシビュラシステムという御託宣。幸福な生活を倦まず弛まず追求し続けた結果、臨界点に達して飽和しきった社会システムと法制度。シビュラシステムのある社会は、一見するとオーウェルが描くような、あるいはソ連が敷いたような縦割り構造の管理社会のように見える。だが実相はもう少しニュアンスが異なっていて、「人類にとって、真の幸福とは何なのか」という、古今東西の哲学者たちが追求してきた命題をシビュラシステムというSFガジェットでもって炙り出そうと試みる、紛う方ない思弁が物語世界の背景に織り込まれている。

 社会学的に定義される「幸福」と市井の人々が願う土着的で生々しい「幸福」の定義は異なる。人間は理性的な存在であると同時に動物であり、それゆえ欲望やら感情といった厄介な変数に影響を受けやすい存在である。我々は塩基対に還元されうる肉の塊でしかなく、劇中の宜野座のセリフを援用するならば、「歴史に学んで」いても、結局のところ自らの経験を通すことでしか何事も体得しえない愚かでちっぽけな存在である。

 とまあ、そういった具合の思弁をイケメンキャラクターとドミネーターという中二心くすぐるガジェットと、虚淵節ともいえる粘着質でヘヴィな人間ドラマでいい塩梅に調理したのがPSYCHO−PASSというエポックだったんだな、と気づいた今日このごろ。(PSYCHO−PASSについては、また改めて別記事にて色々と書こうと思う)

 サイバーパンクの文学面における金字塔は『ニューロマンサー』だが、それをいみじくも映像化してみせたのは『ブレードランナー』だった。そして、『ブレードランナー』をビジュアル的に踏襲した『PSYCHO−PASS』には、理の当然としてサイバーパンクの残り香がただよう。それは繁華街、スラム街の持つ猥雑とした雰囲気のことであり、市井の人々の息遣い──ある種の泥臭さ、のことだ。そして、「令和日本に放つサイバーパンク巨編」を謳う『アブソルート・コールド』は、この”泥臭さ”で溢れている。結論から言うと、この作品、めちゃくちゃストレートにサイバーパンクでした。一応、ネタバレはなしで書いていくけど、それでも気になるという神経質な方はブラウザバック推奨。未読でこの記事をここまで読んだあなたは今すぐAmazonで本を注文すべし。じゃあ、行きまっせ。

あらすじ
隣接するK県と対立する見幸(ミユキ)市は、とあるメガ企業によって実質的に支配されている。生命工学から情報技術まで幅広く扱う佐久間種苗がそれである。この佐久間種苗の本社にて、細菌兵器がばら撒かれ、社員百数名が殺害されるテロが起きる。

物語は三人の視点で進行する。ABID(アブソルート・ブラック・インターフェイス・デバイス)と呼ばれる最先端技術を使って事件を捜査する捜査官、来未由(クルミヨシ)。元刑事で今は興信所を細々と続けている酒浸りの男、尾藤(ビトー)。貧困街である高層世界に住む少女、コチ。

事件を捜査するにつれて、佐久間種苗がひた隠しにしていた「とある計画」の存在が明らかになる。

 いやぁ、じつを言うとワタクシ、面白すぎてイッキ読みしました。語感のセンス、散りばめられたディテール、匂い立つ世界観。必要以上にひけらかさず、押し付けもせず、しかし読後に振り返ってみると物語世界が総体として立ち上がってくるような、SF設定の数々。いやぁ、面白かった。

 この作品、世界観というか雰囲気、空気感の作り方が最高にクールなんですよ。登場人物の名前をとってみても、来未由(クルミヨシ)とか、花城(ハナグスク)とか、オルロープ雫とか。(オルロープに関しては、最後に伏線回収まであってたまげた)

 ルビの振り方もSFっぽさがゴリゴリで、圧縮機《コンプレッサ》とか、無人飛行機《ドローン》とかはSF読者にとっては想像の範疇というか、俺は今SFを読んでいるんだぞ、と自己を再確認して安心できるから好き、といった感じの既視感のあるルビだと思うんだけど、埋め込み装置《インプラント》とか、路上強盗団《ロードランナー》とか、ABID《アブソルート・ブラック・インターフェイス・デバイス》とか、このあたりのルビになると、思わず居住まいを正してしまうはず。(『ニューロマンサー』に於ける攻性防壁の略語はICEだったし、サイバーパンクをエロゲで実現しようと試みた『バルドスカイ』は、防壁にICEというルビを振ってSFファンにささやかなウインクを送っていた)

 かと思いきや、あえて「メール」のことを「メイル」と表記していたり。このあたりの語感というか、言葉遊びのセンスが最高にクール。そもそも、物語の舞台となる見幸市に隣接するのが「K県」っていう時点からしてニヤニヤが止まらない。数々の文学作品で繰り返し現れる「K」の文字。適度に抽象化するための意匠としてのアルファベット。

 こういった言葉遊びのセンスも刺さったのだけれど、世界観を構築するSF的なディテールがもう最高。サイボーグがいたり、通信端末が人体に埋め込まれていたり、空間に情報をディスプレイするために室内に発光微生物を充満させたり。本来は統一されていた行政単位が、それぞれの思惑から対立し、市が分裂した、という設定とか。

 ディテールの例をさらに挙げれば、作中で市境警備隊が使用するのはライオットガンでもなければ、M1ライフルでもなく、狙撃自動拳銃。ストックとバレルを延伸し、接眼レンズを引っ張り出して狙撃する。かくも技術的に発展した時代なら、銃器が小型化するのは当然だし、越境してくる市外の部外者の足を止めるのに適切なマンストッピングパワーを持った銃器となると、この時代の拳銃レベルの威力が適切解なんだろうな……とか、背景情報をアレコレ想像しながら読んでいました。

 そんでもって、物語の舞台となる見幸市には単軌鉄道≪モノレール≫が走っている。外部との接触が途絶えた見幸市という構造を考えれば、市内の交通手段としては全体をまんべんなく周回する環状線構造の鉄道が一番合理的なんだろうし、限られた都市空間を少しでもムダにしないようにとの配慮からモノレールが採択されたんだろう(たぶん、知らんけど)

 ディテールを挙げればキリがないけど、特筆すべきは見幸市の特異に発展した社会階層だ。この世界、高層ビル群の最上部(屋根の上)に住んでいるのが貧民で、中流以上の人々は下層に住んでいる。上層と下層に対するイメージがあべこべになっているのが面白い。

 上層と下層をつなぐ階段には税関のようにゲートが設けられていて、当然のことながら通過するには事前に屋上組合に申請が必要となる。一口に市民と言っても、その中には歴然たる身分階級が存在し、純市民ではない人々──仮市民たちは仕事にもあぶれ、おのずと上層世界に住むことになる。その結果、上層世界は貧民窟と化し、治安は悪く、司法の手が届かない無法地帯となっている。この世界、電気を発電したり、蓄電したりして、その電気を売買できるらしく、日照権すらも売買の対象となっている。そういった社会インフラを運用するために必要不可欠な歯車として、上層に住む人々は様々な仕事を受け、細々と生活を送っている。さらにこの上層世界には「電気連合」やら「高サ」といった組合が存在し、この組合が仕事の割り振りから個人融資など、上層人たちの生活すべてを牛耳っている。この一見するといびつな形で発展している上層世界の構造だが、読み進めていくと、混沌とした中に秩序があるとわかってくる。この混沌と秩序のバランス感覚というか、様々な要因が複雑に絡み合った結果としての乱脈具合がいい。良いよね、こういう猥雑とした空気感。これぞサイバーパンク。この泥臭さこそ本物よ。

 とまぁ、ネタバレを踏まない程度に紹介しようと思ったら、ディテールを列挙しているだけの痛いブログに成り下がってしまったのだけれど、本作の面白さはSF的な設定だけに留まらない。物語の中核に据えられたAI──電子存在をめぐるSF的な思弁も面白かった。

 例えば……電子空間上に存在する思考体──押井守攻殻機動隊』におけるプロジェクト2501のような存在──彼/彼女にとっての快楽とは何なのか? 肉体に縛られない電子的存在である彼/彼女にとって、肉欲や金銭欲、支配欲といった卑俗な欲望は無縁の代物だ。彼/彼女は純然たる思考体であり、人間が食を欲するように知識だけを欲する。知識を得ることが快楽となる。娯楽として提供される知識──それがもし、○○知識だったら? という「ワットイフ」に基づいて、本作のクライマックスが展開されていく。こういうアクロバティックな思考はSFの醍醐味だと思う。

 もう一点、個人的にSF的な面白さを感じたのは、「自己の電子複製をつくることは実質的な死と同義ではないのか?」という問いだ。最近よく聞く、自己の電子的複製をサイバースペース上に構築する、という試み。もし、自己の完全な電子複製を作ったとして、自分自身が電子空間に遷移するわけではない。物理現実の自分は肉体ごと「こちら側」に残される。幾人もの人格を電子空間上に複製し、故人と一緒にサイバースペースで不死の生活を送ろうとしたところで、その幸せを享受するのは「わたし」の複製である「わたし」であり、現実世界の「わたし」は自己の複製が幸福に浸っている様を傍観するより他にない。うーん、こういう生命工学やら自我が絡んでくるSF的な「ワットイフ」って面白いよね。

 異邦の中にフェティッシュとして放り込まれた日本文化ではなく、見慣れた日本の原風景を数々のSF的ディテールで装飾し、「既視感があるけれど、ここではないどこか」を地に足のついたリアリティで構築したSF的世界観──その中をキャラクター達が縦横無尽にアクションしまくる様は読んでいて非常に気持ちが良かった。

 未読の方はぜひ書店へ。
 既読の方は思い出して余韻に浸ってください。

「紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない」
 槙島聖護 『PSYCHO−PASS』